先生、なんで夏目漱石と森鴎外どっちが素晴らしいなんて、言えるの!?
(第17回)続×12回・美意識(センス)のない世界!?
=美術学校は本当に必要なの?=
さて前回の質問は、「美術学校は本当に必要なの?」でした。今度も私の加入している ブログの皆さんを中心に、とてもとても沢山のご意見をいただきました。本当にありがとうございます!
そんなわけで今回はほんの一部しかご紹介できません。また文章をカットさせて頂いた意見も多く、申し訳ありません。今後もこれに懲りずにどんどんお送り下さいね!!
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★ 美術学校は必要か? ずばり、必要です。特に日本人には必要です。なんでかと言うと、歴史的に美術の流れを知る事が重要だからです。クラシック音楽も同様です。
そしてその上で西洋人の論理的思考や人生観を知り、こうした知識や感性を得た上で自分で新しく作り出すものを考えなければならないからです。
勿論こうした事は自分ひとりでもできますが、孤独に人生を生きる事が難しいように美術で何かしたいのなら人との出会いも必然であるからです。
〈yhiro〉
★ なかなか面白いテーマですね! 絵描きをやってます。美術については、高校時代二人の先生からデッサンと油絵を学び、大学でも学びました。自分にとっては、他の人と知り合い切磋琢磨して大いに役にたったけど、一定の教育を受けたところでアーティストが出来上がる訳ではないので、人によっては不要でもあると思います。オリジナリティが求められる世界だから、結局は一人で探すしかないのかも。。。
〈たそがれ〉
★ 絵は数学などの勉強と違って、誰かに教わって出来るって感じではないと思うので美術学校が必要ないと言う人の気持ちもわかります。でも技法や昔の画家の話など、自分一人だと調べなかったり、知らないまま終わってしまうようなことを知れたり、同じ「絵が好き」な仲間と出会い語り合えたり、自分を高める為に考える場所かな、と思います。だから自分には必要 かな(^^)
〈HAL〉
★ 完全に右脳のみで描けてしまうジミー大西のような人には学校は必要ないと思います。そしてルソーのような個性もまた学校教育からは生まれない良さだと思います。
〈エド鹿モンテネグロ〉
★ 私の弟は幼稚園のころから絵を習いはじめ40年間描き続けています。2年ほど前からパリの画壇でも賞を取るようになりました。もっと勉強したいからということで昨年夏、バルセロナかパリに留学を志しました。その直後、またちょっと嬉しい賞を取りました。その賞を取ったとたん、学校に入る気持ちはなくなったそうです。
デッサンやクロッキーの場に出入りし、気の合う絵の仲間を見つけてお互いに批評し刺激し合い毎日書き続ける。これが一番、ということに改めて気がついたそうです。
〈コラソン デ メロン〉
★ 考えてみると意外と難しい事ですね。単純に風景画など技術を必要とする物を描く事に対しては学校が必要だと思います。しかし表現したいものが感覚的な物(抽象画など)、一切の既成概念を無くし、感性、感覚だけで表現する事に対しては、確かに学校と言う場は邪魔になりますね。
例えば私が描きたくてもまだ描けていないものの一つは「無」です。これを表現するとしたらどう表現しますか?(キャンバスを黒く塗りつぶしても私にはそこに「黒」と言う色が存在してしまいます。) または「幸福感(幸せ)」を表現するとしたら
どう描きますか?(具象的な表現は一切なくです) まだまだ幾つもあります。
心に込み上げて来る感情や実体の無い物に関して技術は無力に等しいのです。例えばそれを技術で補おうとすると無理が生じてしまいます。必要なのは概念に囚われない心と、自分のセンスだと感じています。
〈ヒデ〉
★ 絵も技術や知識も必要ですし、様々な年代や表現をするアーティストとのコミュニケーションも必要です。密室に籠もって誰とも会わずに生涯終えるなら別ですが、人の生活があっての美術ですから学校は必要でしょうね。もちろん学校に行かずに作家として大成する人はいると思いますが、それが学校不要論にはつながらないのは、他のジャンルと同じ事。
自分の内面だけを表出するだけで作品が成立するほどの人格を持った作家は、現代の日本ではお目にかかったことはありません。
〈ン〉
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とても読み切れないほどの(でも全部読ませていただきましたよ!)たくさんのご意見本当にありがとうございました。全体的には学校必要論が70%位だったと思います。その理由の一つは、実際に絵画を学校で学んでいる人が多かったからかもしれません。
でもその美大生(?)の多くから、以前、こんな話しをよく聞かされました。
先生の指導通りに絵を描けば評価されるが、ちょっと独創的な絵に挑戦すると「こんなものは芸術じゃない!」などと否定され、疑問を感じてしまう。 たしかに基礎は必要かもしれないが、それを続けていたらみんな同じ絵になってしまう・・というのです。
絵のことはわかりませんが、じつはボクにもそんな経験があります。むか~し中学校の国語の授業で、夏目漱石と森鴎外の短編を読まされた後で、先生が質問してきました。
「この二人の、どっちが素晴らしい小説家だと思うか?」
夏目 漱石 森 鴎外
え~っ、とボクは固まってしまいました。そんなことボクなんかにわかるわけないし、どっちが優れていると評価できるんだろうか? でも先生は何度も「どっちだ?」と答えを促してきたので、仕方なく適当に「森鴎外が・・!」と口走ってしまいました。
すると先生は「いや違う。それは夏目漱石だ!」と断言するではありませんか。なんという独断的なご意見、これには本当にビックリしました。(もしかすると、ボクはただ先生からいじめられていただけかもしれませんが(笑)・・・!!)
話を絵の世界に戻しましょう! 日本には日展をはじめいくつもの絵や芸術の審査機関があるようですが、それについても、多くの芸術家たちから似たような意見を聞かされました。彼らは口をそろえて「審査員がいつも同じメンバーで、毎回同じようなものが選ばれる!」と言うのです。
もしや私達はこういった審査機関や美術学校や展覧会や、あるいは各種報道を通じて、知らず知らずに、美の基準を植え付けられているのではないでしょうか?
たしか以前「美しさを計るモノサシはあるか?」という質問に対して、ほとんどの人が「ない!」と答えていました。なのに絵画の世界になると、どうしてその基準を学校に学びに行かなければならないのでしょうか。い~や、技術的なものを学ぶだけ、というご意見もあるでしょうが、その技術の中に美の基準は含まれていないのでしょうか?
よく、私たち日本人は、ただでさえ、お上や権威に対して従順な民族だと言われます。だったら〈yhiro〉さんの意見とは反対に、日本だからこそ美術学校は必要ないのではないでしょうか。そして〈ン〉さんの「自分の内面だけを表出するだけで作品が成立するほどの人格を持った作家が現代の日本に現れない」ことの理由も、まさにここにあるのではないでしょうか??
おっと、いささか興奮してしまったようですみません。もう一度冷静に考えてみたいと思います。そのためにも、もう一度以前と同じ質問をさせてもらえないでしょうか。
この世に「美しさを計るモノサシ」はあるのでしょうか??
それは決して絵や芸術の世界だけでなく、人のファッションや体型や顔などについても“何が美しくて何が美しくないのかを計る基準”のようなものがあるかないかを教えていただければ幸いです。むずかしく考える必要はありませんよっ!なるべく具体的に、理由も添えて書いてみてください。 お待ちしてま~~~す!!
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では次回の “ようこそバルセローナへ” を、お楽しみに!
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